仏陀のやったことは、もっとも危険な遊戯であり、

シロウトには、お勧めできない。

素朴に幸福を祈る、欲求、欲望を言葉にする、神様に依頼する、そういうこととは全く、関係がない。

自己観照とは、瞑想とは、ショッキングな言い方をすれば(幾何学で言う補助線を引けば)解離のことだ。

解離とは、『体外離脱』のことだ。逆に言うと、精神医学上の『解離』現象は、『コントロールが不十分ながら緊急避難で起こった体外離脱の一種』だ。


解離、体外離脱しないと、自己を観ることはできない。一回外へでて、観るのだ。


やはり瞑想とは、奇妙キテレツなことであり、幸せなことではない。素朴なことでもない。危険性のある行為だ。


仏教とは、瞑想とは、反社会的な行為だ。社会的とは、『社会的な行動プログラム』を実行することだ。瞑想とは、『社会的な行動プログラム』をセキュリティシステムにより、『今回は通信を許可しない』とすることだ。そして『社会的な行動プログラム』を体外離脱で、外から観察している。恐ろしい行為だ。


仏教とは『こころのシステマ』だ。システムを解析している。外から。システムを中庸の立場で、観ているのだ。

神道には、解析学はない。実践学はある。システムをあからさまにする、『システマ』、『仏教』とは残酷性があるのだ。人間をそこまで、解析しなくてもいいではないか。自然のまま(社会的プログラムコードのまま)、生きればという。

不動心とは、ブラフマンに立脚する、体外離脱後、ブラフマンの自己の中から、観るという事だ。


仏教的な瞑想とは、『幸せを願う心』とは、大きく異なる。悲しみに包まれたものだ。


瞑想には、悲しみのフィーリングがつき物だ。体外離脱は悲しいのだ。


悲しみを突き抜けて、慈悲となり、歓喜があるのか?ピカソの『青の時代』ならぬ、『悲しみの時代』は、瞑想の過程には不可欠だろう。


恐ろしい事を知るのも、バランスの過程ではあろう。としか言えない。