ついった(独唱)

コミュニケーションの内容に不満なら、関係を変えればいい

そこまでしなくてよければ、関係方程式の解が、現実解と近似した事を、確認すればよい。

科学者集団と自分の、関係方程式を解けば

どういう情報が、どの範囲で、伝わるかは、関係方程式の解に、近似する。

ぼくとたかちゃんの間に政治が存在しなければ

政治という情報は、重要度の低い情報だ。

議論の前から、決まっていること

『僕が仕事をする理由は自分でヤバい、これ人に伝えないといけないと思うマグマがあるからだ。ただそれだけだ。でそれだけでいいとはじめから知ってたよ。賞とらないと駄目だとコンペばっかりやってたらいつまで経っても己の思想は伝わらんぜよ。思想は一番…

ツイッターのほうが、情報の凝縮、俳句的な凝縮が

自然と達成できる。

今日は、角が取れた言うか、仕事でも

攻撃性が抜けたせいか、疲れが少ない。

140字という制限

があるから、面白いとこもあった。140字で書く。2字とか、あまらせる感じで、句読点調節して、140字にする。なかなか面白いこころみ。制限があるからこそ。

ツイッター第一期

ツイッター第一期では、気が合ういうか、偏狭な(よく言えば、潔癖な)倫理観が似てた人がいて、気は合った。しかし、政治的いうか、行動的な人だったから、あのままだったら、政治じゃないとしても、運動的なとこに、自分もいったかも。それは、今になって…

さてさて帰宅

いやーツイッター第二期では、自分のファンになってくれた人がいておもはゆいような。でも、嬉しかったけど。まあ狂犬MODE(権威に噛み付く)はやめないとなー、が教訓。議論しない。結構エネルギーが失われる、仕事が。証明しなくていい。

人を攻撃したり、害するために、

能力使ったら、しかえしされるよ、だな。僕がバカだった。でも、傲慢とかは、自分を傷つける。自分だけでなく、楽しく遊んでたみんなと、別れるという傷つきかたは、悲しい。でも、わかった。おやすみ。

人を得意げに、論難するのは、愚かだなぁ、と

思った。オレがね。それに気づいたのも、よかった。敵じゃないけど、対立する人をつくれば、楽しく遊んでいるみんなとも、別れちゃう場合がある。自分の傲慢さで、だいなしにしてしまう。悲しかった、なあ。自分の愚かさが。

しかし、人を害しては遺憾な、楽しかった

思い出さえ、捨てないといけなくなる。好きな人たちと、楽しく遊び、嫌いな人はほっておく。まなんじゃった。嫌いな人を、攻撃したり、非難したりしたら、報いを受けるな。LESSONだな。

またついった、引退した、ありゃりゃ。

なんかいきなりネットみれなくなった。復旧したけど嫌に、なちゃった。 DISりまくったせいか、わからんけど、毒が回った感じ。また、復帰するかもしれんが・・・

認識は刀、刀剣だ、磨いてるやつは、所詮アブナイやつだ、

認識を磨くとは、刀剣を磨くのと、同じアブナイ趣味となるだろう。

認識からの撤退、防御、

凶暴化しつつある認識からの、退避。

認識の放射能化、認識はDNAを損傷させるかもしれない、

少なくとも健康にはよくない。認識とは裂け目を覗くこと。裂け目に、塩を塗りこむような行為。

認識という行為自体が、危険なものであるという自覚、

一般的な課題は、認識の毒性、認識という放射能からの退避。もう認識は危険だ。認識を取り扱うのは、危険物に魅入られた危険物取扱主任。禍々しき狂犬、のみ。

認識からの保護が課題だ、むやみに、無意識に斬らぬように、律すること、

認識は有害だ。強くなりすぎた紫外線であり、放射能だ。

学ぶこと、認識を磨くことは、刀を研ぐ、禍々しき行為、

後ろめたいような、業の行為。キモヲタの行為。

学ぶことが、喜びであるという、時代は終わった、

学ぶことの悲しみと。学ばないこと、古きよきものをホシュする人びとを、傷つけぬこと。

学問は武術と同じく、殺法であり、活法、

請われれば教えるというわけには、いくまい。人を選び伝承せねば、凶凶しき殺法であろう。

破壊に耐えられるモノだけが、観るのだ。

観ることは、斬ることだ。 だから、これからの世の学者とは、辻斬りに近くなる。

認識力の向上は、人を傷つける必然的に、

ということだ。早川由紀夫氏の認識力の向上は、必然として人を、傷つけている。彼の認識力は、地学において向上した。しかし社会学、人間学においては向上しなかった。彼は傷つけた。それは必然なのだ。認識力は、ベールに包まねば、刃物だ。 これからの世は…

観ること、認識することは、善ではない、

大前提的に、人を傷つけるものだ、とデフォルトで考えた方がいいかも。これからの核の時代には、眼の保護膜はデフォルトだ。 モノが観える人間、観ても平気な人間は、畸形的な眼なのだ。

観ることは、突き刺すこと、傷つける行為であると、

考えればいい。保護膜が必要だ。眼を覆うウロコが。

認識の眼は畸形の眼、むごたらしい眼、

すべてを観る眼は、むごたらしい畸形かもしれない。観ない眼、膜がかかった眼、こそ、人間的な眼、やさしい眼かも。

改革とやらは、今の社会が50年後、100年後も同じように、

続くという事を前提にしている。オレは別に原発爆発のビジョンは観えなかったが、経済爆発は、まあ、あんじゃね?と。原発爆発後に、安全安心劇場に回帰して、プレイバックしたら、笑える。と同じく、時間の経過で、経済爆発後の世界の、残像がフラッシュバ…

改革というものが、結局は時間のなかで無だった、

理性を信じる人は、改革の意味を救い出したいのだろうが。こちとら理性にも、改革にも義理はない。

改革というコトバの価値がインフレイトしたのは、小泉時代だが、

流れ去った今では、イミフだ。栄枯衰勢を懐かしむ琵琶法師でもいれば、少しは意味もわかろうが。改革派、守旧派。インフレイトして紙くずになった。

法が近代社会の基礎だ、政治過程が近代だ、なら

近代が崩壊する、でよい。