『シリウスの都 飛鳥』栗本慎一郎 書評part2

シリウスの都 飛鳥―日本古代王権の経済人類学的研究

シリウスの都 飛鳥―日本古代王権の経済人類学的研究

書評のpart2である。関裕二『消えた出雲と継体天皇の謎』を読んで、刺激を受けての本書再読ノートである。

まず古代において、あるいは現代でも、氏族が重要であるということだ。古代日本は有力氏族の交代の歴史と考えられる。物部氏蘇我氏、大伴氏、藤原氏という氏族、まあトライブ彼らが情報の処理の単位であった。つまり天皇とは、政権の機関であり、そこへ姻戚を結び、氏族を送り込む過程が、政治過程であったと考えられる。権勢を誇る氏族が、なになに氏族系の天皇を輩出する。情報処理の単位。DNA情報と考えてもいい。氏族の血、DNAが天皇家に入る。

現代でも、といったのは世界的なハナシで言えば、ロスとロックも氏族であり、ロス家、ロック家、ロス氏、ロック氏と言えるからだ。氏族が情報処理の単位だ。

ここまでは関裕二氏の著作を読んで、思ったことだ。関氏の著作を、別の観点から、クロスする観点から、シリウスの都、で書いてあったと思い出しての、再読なのであった。


栗本氏の著作の重要な観点。ただし、このマトメには自分の解釈、超訳的マトメである。

古代人は現在の人の『常識』よりも、さかんに長距離移動していた、また集団で移動できた、古代だから遅れている、移動できたはずがない、ではなく、古代は、集団的な移動こそが逆に、『常識』であった。違う世界観があった、ということだ。

・日本の古代史は、漢民族の漢字による国書に依存している。しかし古代国家は、移動国家、遊牧国家が定住国家以上に、強力であったと考えることができる。世界観が異なるハナシなので、想像するのが、難しいが。例えば魏志倭人伝は魏の国書である、例えば遊牧民族鮮卑系の北魏の観点から、歴史を復元(再創造)する。

古代日本は、連邦国家であったと考えてもいい。北日本系と、九州系はまったく異なるクニと考えてよい。日本列島という場所に二つのクニがあったと、考えてもいい。

現代日本パースペクティブ、世界観は、藤原氏の情報空間、藤原氏族の処理した情報に、依っている、情報の編集者としての、藤原史観を意識する。

・祭りとは、精神的なエネルギーの消費であり、食べるといった物質の基盤整備以上に、重要なものだった。

・倭とは、北九州を中心とする王権である。その前身である、邪馬壹国と言われたクニの領土、領域は『朝鮮半島南部から九州にかけての』クニである。

・日本は、古くは日の本であり、北部日本の王国である。

北日本の王権は、中国北方の匈奴鮮卑といった遊牧国家との連携があったクニであると考えられる。

・ヤマトは大和と漢字が当てられ、大きく和する、北方日本と倭という二つの大きな王国が、河内、大和といった地において、統合する、大きく和する、ということだ。

・ヤマト、現在の奈良県で、日本列島の統一王権が発足した。

大きく分けると、九州の倭、日の本を起こす中核となる北方日本、そして小さいくくりでは、出雲と北陸、この二つ。併せて4つの国家連合が日本となった。

蘇我氏は北方系、物部氏は倭の系統である。


今回のpart2書評では、聖方位の部分は、意図的に言及していない
その部分は確かに面白い部分、目を引く部分なのだが、今回言及した、遊牧国家、集団の移動、国家の流動的領域、日本の4つの起源、藤原氏の情報創造、これが重要だ。

この認識は革命的なのだ。つまりは藤原氏の情報空間から、離脱する試みなのだ。上層から観る目線であり、藤原氏の編集した情報空間を脱して、日本を眺める行為だ。断固として、革命的な、静かな認識論的転換である。

私自身は、九州に住み、倭、熊襲、隼人に親近感を持つ。

また神社にしても、住吉、八坂、八幡といった系譜は、古代日本の4つのクニをおぼろげにイメージしながら、異化、分化しつつ、アイソレーションを効かせて、観ることができる。

混ぜるな危険だ。日本という混ぜた認識ではなく、一回4つのクニ(筋肉)をアイソレートして、部分を動かし、精緻に統合(ダンス)する。

私は、あくまで九州の地で、神社やヤマ、聖地を巡りつつ、アイソレーションを意識しつつ、古代の残響を聴くということになろう。意識としては熊襲、隼人よりの視線で、各種族の残響を聴き、統合する、オーケストレーションすることになるだろう。それが聖地音響学だ。