「ゆがめられた地球文明の歴史」栗本慎一郎

隠された真実とは何なのか。
隠すものがおり、そこで隠すべきものの、決定が行われる。
隠された真実とは、近代につながっていく現行の文明、誇示的な巨大建築物と文字による記録を特徴とする文明が、騎馬民族の大移動により、作られたという視座だ。

この書は、視座を提出している。このように世界を見れば、もっとも整合的に理解できるという視座を。

近代への文明の波及、伝播を担ったのは、スキタイ人ゲルマン人フン族非主流派を含む混成部隊)などである。そして現行の歴史は、アジアの歴史の記述は、中国により、ヨーロッパの歴史の記述は、ゲルマン人フランク王国の末裔)によりなされ、それ以外の視座は抹消されている。ゆがめたのは、漢民族ゲルマン民族と名指される。

ゆがめられたの意味は、ゆがめられ、抹消されたものへの愛惜と、ゆがめたものへの、怒りである。栗本氏のもともとの性向でもあるのだが、キリスト教に強く強く影響を受けたヨーロッパ中心にすぎる学問(近代学問)と中国の漢字による歴史書(特に司馬遷)、つまりは日本にとっての近代以前の学問への、強烈な敵意が、特徴的だ。

旗幟を端的に、鮮明にしている。隠された騎馬民族による、非文字社会文明を復権し、それを貶めたヨーロッパと中国に、敵意を示す。ただ端的なのだ。

それは文字に残っていない真実があるはずだ、という強烈な思いだ。
文字に残っている学問、いわゆる学問では、ヨーロッパという覇権と中国という覇権が、地球の歴史を、それぞれ自らのいいように描いていると。

しかし彼の主張する現行文明の起源は、南シベリアの肥沃な地帯に起こった、ミヌシンスク文明と呼ばれる文明である。それがなぜ現行文明の起源かといえば、移動と金属、これが、初めて特徴的に、主張を持って、追求された文明であったからだ。

そしてこのミヌシンスク文明は、スキタイ人、サカ人により担われた。
スキタイ人とは、ギリシャ史におけるマイナーな登場人物ではなく、サカ人も飛鳥とつながりを持つかも知れぬロマンの対象でもなく、堂々と現行文明の端緒を担った民族とされる。スキタイ人、サカ人が、ペルシャを経由して、シュメール人となり、西欧文明の激動を担っていく。シュメール人(スメル人)の前は、スキタイ人、サカ人だよと。

これは現行に繋がる地球文明を担った初期の民族は、スキタイ人、サカ人であった、という主張になる。かれらの大移動が、各地に文明を定着させたと。

民族のほかに、国でいえば、文字による記録に熱心でなかった為に消えてしまった(しかし間違いなく強力な文明であった)国、たとえば匈奴突厥、パルティア、カザールなどの役割の重要性が主張される。重要であったが、消された、ゆがめられた歴史により、消された国ということだ。

ヨーロッパに関しては、キリスト教アタナシウス派が、フランク王国に採用(政治的な統合原理として)されて、大きな意味を持ったとされる。現在の西欧は、フランク王国が、分離して生まれたものであり、そのフランク族のもともとの出自もあいまいで、サリー族、ゲルマン族、チュルク族、ラテン族、ケルト族、フン族、スキタイ系サルマタイ人などというような、雑多な民族が、強い王への忠誠により結集したとの、視座を採る。

ヨーロッパとは、もともとギリシア、ローマとは関係がないのだが、政治的な原理、権威としてのローマ法王を利用するため、キリスト教アタナシウス派を採用したと。
アタナシウス派のほかに、アルビジョア派、カタリ派などもあったのだが、これらは土着的な、あるいはミトラ的な要素を持ち、アタナシウス派に、粉砕されたとされる。
だから政治的あるいは宗教的な権威としてのキリスト教だったという訳だ。

ヨーロッパ文明とは、ギリシア・ローマと、無理やり接いだ文明と、いう視座になる。
中国文明とは、司馬遷への悪罵は痛烈を極めるが、要するに漢字による記録と言うものを押さえた、学問、文字をがっちり押さえて、その他の偉大な文明を、意図的に抹消している、という評価になる。その評価の一例として、鮮卑匈奴などの名称自体が、差別意識としかいいようがない表現であり、自己中心の極まった、憎むべきものだと。ヨーロッパについても、無理やり接木しているのにも、関わらずいかにも地球の文明をずっと継承してきたかのような、近代学問を憎む。

要するに、ヨーロッパと中国の学問の、自己中心極まる、嘘に怒っている。

以上の歴史観は、視座の提出、こう整理すると、全部が繋がる、有機的に理解できるというビジョンの提出である。なかなか証明になじまないし、そもそも証明も意図的に無視される。その一例として、ウィゲナーの大陸移動説の無視、黙殺があげられる。

まあ真実を暴く、学問の政治性を暴く、ヨーロッパキリスト教の政治性、中華思想の政治性を暴くということになる。

私自身は、栗本氏のビジョンに強烈に賛同するという熱情はない。キリスト教の相対化はデフォルトである。中国への憎しみの共有はないが、突厥匈奴、モンゴルが先進的な文明だったのではという気持ちはある。


学問における真実とは、政治性と離れないし、政治性そのものである。要は、御用学者であり、学問とは、結局は御用学である。近代市民社会における学問の独立といった、虚構の解毒は、エネルギー、時間をさけないが。

この主張は、直観的に、証明不要という立場であるので、インパクトはない。

中国へのスタンスに、栗本氏へのちょっとした違和感があるのだが、栗本派経済人類学の主張として、資本主義(市場が肥大した社会)が自発的に形成された国は、内部における二重価値体系の相克、これがあるものだけだという視座がある。それはヨーロッパと日本であると。(中国には、自発的な資本主義の形成がない。これは、氏の「幻想としての文明」でも、中国文明における情報処理の後発性として議論があった。)
しかし現在、今の地球の資本主義、自分なりの言葉であると、紙幣主義は中国、アメリカの二大パワーの相克により、営まれている。栗本氏の、二重文化が重要であるという主張が、中国の圧倒的強欲資本主義の現前を見ると、色あせて見えてしまう。
これは氏のバイアス、氏の記憶には、栗本家、織田信長の配下にあった栗本家へのこだわりといったバイアス(圧倒的日本への愛情)が影響しているように見える。

この中国評価への違和感を除けば、栗本氏の主張は、一貫して学問論、つまりは真実とは何か、逆に政治性とは何か、ということになる。しかし栗本氏は、保守派への親近感を隠さないが(自民党に所属し、安部元首相なども、評価している部分があった)、真実の相対性という、視座は弱いように思われる。

私は相対主義の極北は、仏陀だと思うのだが、氏は「パンツを脱いだサル」などでも、仏陀を含め宗教は人類の問題を解決できる視座を提出していない、と解釈できるものいいをしている。また「意味と生命」における「全体従属的」とは、何かという議論の中でも、近代の学問は、マルクスを強烈に含めて、ある思想が用具的、つまりは偽物の思想かどうかの試金石は、層の展望、上層への展望の開けがあるかどうかだ、というのにとどめている。この言い方では、判定は不可能、学問とは、その判定をめぐる闘いである、ということになる。栗本氏の身体性、身体記憶に、強烈な栗本家のDNAのようなものが、影響しているらしいので、氏が保守、日本への愛情が溢れた主張に落ち着くのは、納得はできるのだが、学問的には、別であろう、と思ったりもするのである。

要は、氏の学問論、歴史学の集大成的書物である。氏の本になじみがない人も、一種の学問論として、読んでもらえれば、発見があるのではと思う。