「さっさと不況を終わらせろ」 ポール・クルーグマン

さっさと不況を終わらせろ

さっさと不況を終わらせろ

この本は、経済停滞についての本、であるとまずクルーグマンは宣言する。
1930年代以降、アメリカでは初の永続的失業の蔓延が起こり、この事態は、経済的な損失のほか、社会的な停滞感、喪失感の蔓延といった深刻な社会不安を引き起こしていると警告する。

そしてこの不況は、経済循環に任せる、神の見えざる手に任せておく、市場に任せる、そういう「レッセ・フェール」お任せでは駄目だと強く主張する、その裏に、この不況は「すさまじい人災」である、財政政策的な手段をとらないことを合理化する政策担当者と経済学者のもたらした人災であるとの糾弾がある。

出発点として、まずは不況にはまっているという事実を、認めること。そしてこの不況にはまって抜け出せない状況を理解する、経済学の概念の用具があることを思い出す。それが、ケインズの創造した、「不景気を理解するため必要な分析的枠組み」であり、ジョン・ヒックス、アービング・フィッシャーといった経済学者の古くて新しい知見、これらを総動員すれば、適切な手を打てるとクルーグマンはいう。「ドントギブアップ」(ピーター・ガブリエルケイト・ブッシュ)と。

第一のケインズのメッセージ。
大不況は、「マグネトーの不具合」だ。つまり「こんな事態はまったく起こる必要がない」んだ。エンジンクラッシュという致命的な事態ではなく、電装系、ソフトウェアといった小手先の不具合が、「途轍もない泥沼」を引き起こしているんだというケインズの楽観的メッセージを、まずクルーグマンは思い出させる。

どうしてケインズなのか、それは不景気から脱出する「第一定石」、中央銀行FRBがお金の供給を増やす、マネタリーベース(流通通貨と銀行の準備金)を増やす、そうすれば景気は刺激されると言うマネタリズムの定石が通じなかったからだ。
2008年以降、FRBがマネタリーベースを三倍にしても、事実、景気回復しない。クルーグマンはこの問題を知っていた。1999年、クルーグマンの「世界大不況への警告」は、日本がマネタリーベースを増大しても、景気回復しないという、謎の事態に陥っており、これが世界で繰り返される恐れがあると言う、警告の書であり、彼は近年この問題に取り組んでいる。

マネタリズムが有効な手を失っている、この謎の事態を解く鍵は、ケインズの「流動性の罠」の概念。流動性の罠とは「ゼロ金利でもまだ高すぎる」事態。
こういう事態が起こりえるのか、ここでミンスキーとアービング・フィッシャーの登場。

ミンスキーの「金融不安定性仮説」。ミンスキーはレバレッジに注目。レバレッジとは「資産や所得に対して負債がどれだけ積み上がっているか」ということ。しかし負債そのものが、金融不安定化を引き起こすわけではない。「誰かの負債は、誰かの資産である」法則。世界経済全体では、常にバランスする。しかし、レバレッジが高すぎると、不安定性、脆弱性が高くなる。「ミンスキーの瞬間」とは、貸し手が雪崩を打って「負債のリスク」を、認識し、借り手は「負債圧縮」競争にはまる。「負債圧縮」が加速度的に蔓延していく、負の連鎖状態に。

アービング・フィッシャーの「大恐慌の負債デフレーション理論」(1933)
信用創造と信用収縮は逆の過程を経る。負債圧縮の努力が、「自己強化的な負のスパイラル」をもたらし、壊滅的事態「負債デフレスパイラル」を引き起こす。信用収縮過程が雪崩を打つ。

ミンスキーとフィッシャーにより、デフレスパイラルに「はまる」原因が概念化された。そして経済政策のパラドックス
「倹約のパラドックス」(支出を個々の企業、政府が減らすと、負のスパイラルで全体の経済沈下し、渦巻き状に、落下すること)、「負債圧縮のパラドックス」(上にあるとおり)、「柔軟性のパラドックス」(賃下げ、悪いとされる労働賃金の価格硬直性(いったん決まるとなかなか下がりにくいこと、逆は柔軟性)を正しく、柔軟にすると、経済全体が、負のスパイラルにはまる状態)といった、「大不況期の経済」(デフレスパイラルに「はまった」経済)は、平時には考えられない「パラドックス」に、また「はまって」しまう。

こういう構造なんだと、クルーグマンは、「大不況期の経済学」を再構築していく。

近代経済学は、「政府の役割重視、ケインズマクロ経済学リベラリズム」vs「市場メカニズム重視、ミクロ経済学、レッセ・フェール」の対立構造で動く。

ケインズ経済学は、1930年大恐慌への処方箋として、なすすべがなかった経済学を、塗り替えるものだった。そしてアメリカ経済は、ルーズベルト公共投資重視政策にチェンジし、その後も政府主導の経済政策を採り、第二次世界大戦における完全雇用の達成し、戦後も持続的成長を続けた。その中で、「大不況の経済学」としての、ケインズ経済学の負の側面にのみ注目が集まり、忘れ去られた。1980年代、ミクロ的な基礎を持つマクロ経済学の構築と言う「ルーカス・プロジェクト」に参集した秀才たちは、ケインズ派的な意見を、「ひそひそ話とくすくす笑い」で迎えた。

そしてゆり戻しが来た。大不況に「嵌っている」現在の状況。クルーグマンはこれは持続的な不況であり、景気循環的に、待っていれば、「清算すれば」、「膿を出せば」済む問題ではなく、まさにケインズの直面した状況だと強調している。ケインズが直面し、経済学を書き換えた状況に再び「嵌ってしまった」、「流動性の罠」に落ちてしまった。その事実を直視すれば、ケインズ的な経済学の知見を利用するのは当たり前ではないか、という訳だ。

クルーグマンは、大不況下で、「大不況の経済学」たるケインズ経済学が無視されるのかの理由を述べていく。

まずは金融イノベーションである。資産担保証券債務担保証券クレジット・デフォルト・スワップといった高度な数学を駆使した金融商品と、その「頑健な金融システムの発展が実現された。」という妄信。いったん債権者に不安が広がると、取り付けと同じメカニズムにより、一挙に崩壊寸前に。そして銀行に対する規制緩和、「グラス-スティーガル法」廃止、投資銀行による証券化商品の投売り。そして社会問題でもある、格差拡大、これも金融イノベーションにおける法外な利益確定が大いに関係する。

これらはすべて、中道右派的「レッセ・フェール」、「市場メカニズム重視」の経済の動き、財政政策、金融政策により生じている。そしてそれは、第二次世界大戦後は、ボロを出しながらも有効とされてきた。そして、アメリカにおいて1970年代、1980年代前半君臨したロバート・ルーカスなど、以前の主役の経済学者たちが学問的な援護射撃を行ってきた。

しかし時代が変わった、ということだ。市場の野放図な規制緩和と景気拡大は終わった。大不況時代なのだ。大不況を分析する知的装置を、ミクロ経済学、合理的期待形成はもたない。不合理な事態であるから。そこで大不況始末のエースであるケインズが召還される。主に、分析の概念装置として。

最終部で、アメリカのオバマ大統領の中途半端で効果の薄い対応、ヨーロッパの緊縮主義の猛威など、具体的な政策的状況について述べている。まあ、間違った政策を採っている、断固としたマクロ政策の実行と決然とした金融緩和が必要であると。

そして結びとしては、中途半端な対応や、反動的な先祖がえり(緊縮主義)をやめて、「大不況の経済学」、ためらわずマクロ政策を実行しようではないかと。


以後は、雑感。
アメリカ経済学会において、新ケインズ派と色分けされるのは、ベン・バーナンキクルーグマン、クリスティ・ローマー、グレゴリー・マンキューとされる。
また逆に、敵役、間違った政策の擁護派には、ロバート・ルーカス、ユージン・ファーマなどがあげられる。少し面白かったのが、一斉風靡したマネタリズムは、ミルトン・フリードマンによる経済史的研究により帰納された概念であり、それを演繹的に、スタイリッシュに、数学的に、論じたのが、「合理的期待形成派」のロバート・ルーカスであるということだ。本書では、フリードマンは、ケインズの概念を教科書的に理解し、述べたフリードマンと言う風に、ケインズの基本がわかったフリードマンという扱いがされている。

敵役の学問的総大将は、ルーカスと。

面白いのは、もうアメリカ経済学のパワーシフトは、新ケインズ派に移ってるらしいこと。そしてフリードマンは、古いタイプの基本のわかった、経済学者であり、経済史的な研究が影響力を持った。マネタリズムの実際の守護神は、ロバート・ルーカスの「合理的期待形成」というスタイリッシュな、数学的に気持ちいい理論であったこと。

先入観と違っていたのは、クルーグマンは、マネタリスト的な金融緩和一辺倒と勝手に思い込んでいたが、彼の学者としての特異性は、「長期停滞にはまった日本研究」あたりから出てきて、欧米日本はすべて長期停滞に嵌る傾向にある今、その理論を全面展開させつつある。そして「日本研究」の骨子は、日銀のマネタリーベースの拡大が、不況脱出の効果を生まなかったこと。これを「流動性の罠」とケインズの分析装置で捉えている。

ものすごく古いケインズ派、公共事業一辺倒みたいなのではないが、金融政策も、財政政策もする。政策面の、クルーグマンの提言は、基本どおりである。しかし最低でも反動はよそうよと。緊縮財政、過度に財政赤字の危機を煽ることは、よそうと。

そして、「大不況の経済学」、大不況の分析装置としての、ケインズは全面的にリバイバルさせている。政策ではなく、現状分析の知的指針として、ケインズを復活させている。

また先入観を裏切ったのが、FRB議長のベン・バーナンキは、新ケインズ派に分類され、そして、プリンストン大学教授時代に、日本の不況への断固たる処方箋を求め、公開したにも関わらず、自分がFRB議長となったら、彼の以前の著作にある政策提言は、不十分にしか採用されてないというパラドックス

クルーグマンが、経済分析の知的装置として、ケインズ復権し、バーナンキもまた、マネタリズムの流れではなく、新ケインズ派であるということ。これは知的な対立軸の話であり、経済学における二大潮流、「政府の役割重視、マクロ、リベラル」vs「市場の役割重視、ミクロ、レッセ・フェール」というどちらに属しているかの、判別は基本中の基本のように思うが、日本での議論はここが、ごちゃまぜになっているようだ。私も先入観が、本書で裏切られた、へー、っと。

私の関心は、経済学そのものではない。その時代に支配的なアイデア、考え、理論が、どうして変わっていくのか、交代するのか。理論的な実体として、人々を支配するアイデア、思考とはなんなのか。経済学の学。学問の学。あるいは情報論。支配的な言説、情報とは何か、どうして生まれ、どうして交代するのか。ここに関心がある。

本書は、そこの解明はないのだが、そこに焦点を絞っていく、一番いい具体例だと思う。学者としての一貫性や、矜持、品は感じる人だと思う、誠実な人だ。