日本銀行 翁邦雄

日本銀行 (ちくま新書)

日本銀行 (ちくま新書)

さて書評だ。まあ、準備不足でも、発酵してなくてもガシガシ書こうと。

翁さんは今、京大で、昔、日銀にいて、旧執行部派の論客。新執行部派がいわゆるリフレ派。で、視点としてはアベノミクス懐疑派に。池尾和人さんの、連続講義・デフレと経済政策と視点は共通の感じ。だが、池尾さんは、前はアベノミクスに少しコミットしたのか、より批判的トーンは弱い。しかし理論的組み立ては似ている。ある種のコンセンサスかなあ、と。
量的緩和中央銀行のバランスシートが膨らむこと自体は、波及経路を通じて、人々の予想インフレ率を上げるメカニズムはない、と。これはバーナンキFRB議長も強調と。異次元緩和の驚きが、人々の中央銀行のコミットメントの確からしさの確信を強め、予想インフレ率を上げる可能性があるという、経済心理学的な問題だと。
そして現在における各国の中央銀行の問題は、ゼロ金利制約下における金融政策であり、このゼロ金利制約下にという特異な条件が、非伝統的手法の金融政策を要請する。
このゼロ金利制約下における非伝統的手法のあり方は、各国の経済の、各国の中央銀行の歴史的トラウマとでも呼べるものに左右されると。(ここは独特の視点だと思う。)
アメリカは1930年代の大恐慌が、経済心理のトラウマに。ECBの要たるドイツはヒトラー政権の台頭の序曲たるハイパーインフレーション。日本は1990年代の資産価格バブル、土地不動産バブルとその破裂。
この各国の歴史的トラウマ、事件が各国の経済思想に決定的な歪み、傾向性を与える。
この視点はを敷衍すれば各国の中央銀行の政策に正解はなく、各国のトラウマ、経済心理上の恐怖との闘いのあり方が政策に結実することになり、つまりは、アメリカは恐怖するものは、必ずしも日本の、ということになる。

さて、現代的な金融政策とは何か?テイラールールによる政策金利誘導により、短期金利に影響を与える政策ということになる。マネタリズム、貨幣数量説は、ゼロ金利制約下では成り立たないと否定される。黒田日銀の論理としては、異次元という緩和のコミットメントが人々のマインドに与える影響という、予想インフレ率をのシフト効果を生じさせる、ということになる。

何故、貨幣数量説は成り立たなくなったのか。まず名目GDPとの相関関係が、ゼロ金利制約に至る超低金利がデフォルトの時代となってから、単純にデータ分析の結果、否定された。そしてデリバティブなどの金融派生商品がマネーと同等の機能を持ち、広義流動性という広い意味のマネーが拡大し、マネーの量という設問自体が捉え難くなって放擲されたという流れのようだ。

ゼロ金利制約下の経済学の主人公は、まあ、クルーグマンなんだという評価になるようだ。ここでアイロニーが出てくるのだが、1998年のクルーグマン論文の「日本銀行が無責任な中央銀行であることを人々に確信させることが必要」と言う表現は、黒田日銀が体現した。そこで頭の良い、翁、池尾氏らは、やってられない感じを受けた気もする。

シルヴィオ・ゲゼルの減価する貨幣のアイデアは結局はインフレーションを起こす中央銀行の無責任なコミットメントで果たされるという、またまた、アイロニーに。

そして、サージェントとウォレスの「マネタリストのある不快な算術」というこれまた、アイロニーカルな論文が、財政統制、金融政策がとどのつまり、財政ファイナンスに落ちていくという、ことを警告し時代はそっちの方向へ。財政ファイナンスと金融抑圧、金融抑制という流れ、ロゴフ、スティグリッツというこれまた、憂鬱な、ブルーな経済学の流れが、現在のようだ。

著者の懸念は、アベノミクスには、出口戦略は問うてはならない片道切符であって、それがそもそも不健全だということと、デフレ脱却後の地獄、中央銀行のバランスシート破綻、金利が上昇したことにより差損を吐き出し続ける中央銀行という、暗澹たる予想と。また、長期国債の買取で、長期金利までゼロに近く、フラット化し、潰れてしまい、結局は、銀行に対する課税効果と同じ金融抑制に向かうのではという懸念。

まあ私見を一個付け加えれば、構造改革における賃金の下方硬直性の構造改革つまり、構造破壊で、賃金構造がごそっと下へシフトしたので、まあねえ、という。

池尾和人さんの本と、読み合わせると、ごく穏やかなコンセンサスが浮かび上がるように、思う。アベノミクスは異次元なので、片道の燃料なんだが。それはそれの、気合の道、この道しかないけど。