『量子の社会哲学』大澤真幸

量子の社会哲学 革命は過去を救うと猫が言う

量子の社会哲学 革命は過去を救うと猫が言う

最近、議論が成立しないこと、社会現象への合意形成が無効になっているような気がして、これを量子力学で言う、シュレディンガーの猫』の隠喩から理解できるのではとのアイデアがまずあった。単なる思考実験、それも高尚な、ではなく政治とか、日常現象に適用して感覚的に理解したいと思った。社会、政治と量子力学がアクチュアルに結びついた議論は聞いたことがなかったのだが、本書の存在を奥出直人さんのツイートから知り、アイデアの展開のヒントがあるのではと、読んでみることにした。


本書の要旨を素描する。


要するに近代論。そして脱近代論、その要が、量子力学の意識化、日常化

本書の立場、パラダイムという科学史家トーマス・クーンの概念に基づいた理解。同時代の知的な状況と、連関しつつすべての領野の知的革命は同時多発的に起こってくるという認識。すべてが絡まっている。

近代の知の守護者は誰か?『われわれが(自然)科学と呼んでいる知の覇権こそが、近代の特徴である。』(p4)。17世紀の科学革命はアイザック・ニュートンをアイコン、守護神とする。

近代の革命とはなにか?聖俗革命である。聖なるもの、聖職者、呪術者の知が、俗なる知、となる。すべての人間が知的な努力さえすれば平等に理解できるはずの知。革命を担ったニュートンは逆に、最後の錬金術師であった。

聖俗革命における社会的な知の代表。マックス・ヴェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』。

近代知の特徴とは?客観的な自然の確立アリストテレス自然学の脱却。自然の知、目的因(対象に帰属する知)を外化する。疎外する。外へ出す。プロジェクション(投影)を行う。


脱近代の「第二の科学革命」とは?相対論と量子力学。しかし現在はまだ、その哲学的な含意を十分に社会は受け入れていない。脱近代の哲学、世界観は練られていない。

アインシュタイン相対性理論とは?近代の最後のPOPアイコンたるアインシュタイン。彼は神はサイコロを振らないといった。そして彼は相対論を完成させた後は、量子力学の否定的な関心からの研究に打ち込んだ。なぜなら量子力学の世界観は、彼には受け入れがたく否定すべき哲学であった。

相対性理論とは何か?光速という公準、原基を取り出す。「光速不変の原理」が神の原理ニュートンの神の法則を、アインシュタインは「光速不変の原理」としてて救い出す。

量子力学とはなにか?光の原理、神の原理を解剖する。光は粒子であり波であるという二重性、デュアリティが現れる。神の二つの顔。なぜ波であり粒子であり、一つに決まらないのか?二重スリット実験によって、観測者と物の関係が明らかになる。観測から、『事後的』、『遡及的に』に定まるモノ。時間の逆転が見られる。理論、観測から、現象へ。


哲学の知における近代とは?ドイツ観念論に対する、イギリス経験論、ロック、ヒューム。そしてドイツ現象学。観念論は本質の学。対して経験論、現象学は現れの学。マッハの哲学はアインシュタイン的な精神へ。現れは、本質を前提とする。本質から流出する現れ。


社会的な知への量子力学の含意を含むとみなせる知。政治ではドイツの政治学シュミットの決断主義。例外状態での決断を論じ、ナチスとの類縁性。意志の力について論じる。ショーペンハウエルからニーチェへ。
レーニンの消滅する媒介者、見通す主体ではなく、失敗を導く主体。
ベンヤミンの『暴力批判論』、「神話的暴力」通常の意味での暴力、秩序へ収束した、事後的に見出された暴力。「神的暴力」とは開始する力、一撃。革命のイメージ。
革命とは?レーニンのありよう、行為したら、過去が変わる。理論と悲劇を笑う、台本を。喜劇とは反理論。行為により、過去が変わり、現実、理論が変わる。


確率論とは?意志論。意志の自由を前提もともと客観的事物は馴染まない。天気予報は収束する、一通りに。30%雨と70%の晴れが同時に確率論的に存在しているとは、普通、考えない。


時間とは?プリコジンの熱力学、エントロピーの不可逆性、閉じた系。観測によるエントロピーの増大。閉じたシステムにおける時間の発生が示唆


読書ノート、雑感(まとまりはないが、アイデアをそのまま殴り書きする。)


ポイントは光。「光速不変の法則」が神の原理。量子力学は、神の二つの顔についての学。粒子と波。一つに決まらない。

観測者は常に遅れて、光の不変の速さから、モノを捉える。モノは、光の速さによって、到達した過去である。常に過去の像である。何故モノ、客観的対象が揺らぐ、確率論的な揺らぎを持つのか?

アインシュタインのEPR効果の解決。情報は瞬時に伝わる。光速を超えて、何故か?量子もつれ情報理論。光と情報。光は媒体である。情報がより上位の原理か?可能世界論とは、意志論を中核とする。そもそも客観的なモノの話ではなく、意志の話なのだ。自由意志がなりたつのか?ということだ。

時間論は、局在性、閉じたシステム、エントロピーが関係ありそうだ。

確率論は、自由意志論である。

客観的実在論は、観測者とモノのシステム的もつれについて、観測者は常に過去の像を見ていることについて。過去の像を、実在と見るとは、どういうことか?

観測者問題とは、客観、主観の区別を無効化する。客観とは、もう一つの主観、外化された、疎外された神の主観に他ならない。客観的実在か主観か?は問題でなく、モノか、その像、知覚、現象か?が問題でもない。本質と現われでもない。モノはなく、すべては情報である。汎情報論。光の上位原理としての、情報が想像できる。問いは情報とは?に収束していくのだろう。