『二十世紀数学思想』佐々木力
- 作者: 佐々木力
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 2001/04
- メディア: 単行本
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20世紀の数学に、数学基礎論論争があった。底が抜けかけた。
無限の位置づけから開始された、数学上の立場、振る舞い、あり方に関する論争であった。
大きい対立軸が形式主義と直観主義。
形式主義はプラトンの系譜。
直観主義はアリストテレスの系譜といえる。
著者は直観主義数学者に親近感、郷愁があるようだ。
著者は、半直観主義者ヘルマン・ワイルを理想とし、直観主義のインスピレーションを大切にしつつも、形式主義という強力な技法も、推し進める、人間的な、高貴な、最後の偉大な数学者としてのワイルを称揚する。
対してフォン・ノイマン、形式主義の申し子であり、アメリカのパワーゲームの進展とともに生きた、悪魔的とも言える、ノイマン。著者は否定的に素描する。
著者は、中立など装っていない。政治的な立場、自我の投入と、歴史の著述は、一体である事を明言している。
まずは、歴史を描写。
数学の20世紀はヒルベルトプログラムから始まった。ドイツ、ゲッティンゲン大学が西欧の数学の聖地であった。そのゲッティンゲン大学の巨頭ヒルベルト。
ヒルベルトの提示した数学の航海図、課題集がヒルベルトプログラム。
それは数学の危機を解消する課題集、マニュフェスト。無限の概念の探究の中で、カントルとフレーゲによる「基礎論上の危機」の発見。
カントルとフレーゲは神学的、プラトン主義的な概念実在論に立ち、その神学的な振る舞い、匂いは洗練されてはいなかった。
そこへ洗練が持ち込まれる。ヒルベルトの形式主義数学、ブルバキの構造主義だ。
数学がプラトン的な実在というよりは、構造の束、形式により生成されるものと置換される。
それに対して、ブラウアーは直観主義。1928年ウイーンでの講演(ヴィトゲンシュタインとゲーデルが聴講)は影響力を持つ。
直観主義者の系譜はアリストテレスの系譜といえる。しかしいかんせんブラウアーの直観主義ではもたらされる数学の果実が、心もとなかった。そのいいとこどりが、半直観主義者、ヘルマン・ワイル。ワイルはフッサール現象学に共感し、構成主義的な態度を堅持。意味、人間を排除しない、行為としての数学。著者はワイルを総合的知性、高貴さをもつと称揚する。
数学の基礎論争を調停する、無効化したのが、ヴィトゲンシュタイン。言語ゲームの思想により、基礎付け不要としての数学を描画する。
その偉大なる人間、ワイルに対し、ノイマンはテクノロジカル・オプティミストであり、強力な形式主義を推し進める。ハンガリー生まれで、祖国が共産主義に踏みにじられるのを激しく憎んだ。アメリカ、プリンストンへ渡り、軍事技術、技術革新の数学的基礎付けに、積極的に関わり、巨大な貢献をする。
ファインマンの証言。ノイマンから吹き込まれた「積極的無責任」の精神。社会的な無責任感の発展という、特殊な思想を育む。頭がすごくいい、高田純次だなw
彼を道徳的に批判しても無意味である。私の立場は、観察するのみ。積極的無責任という思想は、精神防衛で大いに効果を発揮しただろう。
<つれづれなるままに>
ここまで書いてきて、知ったかぶり以外の、何があるのかワカラン。つーか、これはある人への対抗心という、煩悩が生んだ書評であったw
<要点>
・まあ無限論が、数学の基礎を揺るがしたと。
・科学者には、いい人も、悪い人もいると。批判は無意味。神格化も無意味。すっごくいい人も、すっごく悪い人もいる。
・神学のバックボーンに、プラトンとアリストテレスの格闘がある。
それぐらいかな?